筆者紹介
白鳥和也(しらとりかずや)
1960年静岡県生まれ。著述業、自転車文学研究室主宰。
著書に『素晴らしき自転車の旅』
『スローサイクリング』(以上平凡社新書)、『静岡県サイクルツーリングガイド』(静岡新聞社)がある。大学時代に初めて自転車の旅で訪れて以来、ずっと飯田の大ファン。自転車数台収納できるモーターホームを手に入れて、飯田市内の各所を転々とするという、地元にはやや迷惑となりかねない夢を思い描いている。
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ツアー・オブ・ジャパン南信州ステージの周回コースは、「丘の上」と呼ばれる飯田の旧市街の対岸、天竜川をはさんだ東側の地域に設けられている。「丘の上」の飯田駅前からスタートした自転車男たちのパレードは、駅前から真っ直ぐに中央通りを下る。「丘の上」の河岸段丘から天竜川目指して駆け下りるのだ。松川を渡ったら、川沿いに進み、いつのまにか天竜川のほとりに出る。その堤防上をしばらく南下したら、今度は水神橋で天竜川も渡ってしまう。そこでパレードは終わり、われらが素晴らしき国際大道芸人たちの山坂サーキットが始まるのだ。
私のような単なるスローサイクリスト、すなわちツーリストが、国際ステージレースについて、その熱心なファンの方々を歓ばせるようなものが書けるはずもないので、ここでは、もっとローカルなことにふれてみようと思う。すまないけれど、それはいくらか、個人的な色彩を帯びている話だ。
自転車旅行を再開して間もない、1993年頃、私は南信州ステージの周回コースにあたる飯田市下久堅地区を走っている。一度目は、確か九月だった。駒ヶ根から天竜川の東岸伝いに下ってきて、まさにコースの天竜川沿い部分をそのまま通って天竜峡に抜けたのだ。二度目は十一月、そのときは、天竜峡から下久堅を経て、千代というところに向う行程の途中だった。晩秋の日の昼下がり、天竜川のほとりから、再生したランドナーで、ひいこら県道米川駄科停車場線というのを上り続けたのだ。そのルートが、まさか12年後に南信州ステージの上りの白眉になるとは、今もって信じがたい気がする。
その翌年、私はしらびそ峠で飯田のサイクリストT氏と知り合い、長い間、一種の憧れに近い気分を抱いてきた飯田の地に、友人までできるという縁をもらった。さらにその次の年の秋、私は思い立って日帰りのカーサイクリングで飯田を訪れ、T氏に案内されて下久堅の伊那南部広域農道を走った。南信州ステージのコースでいうと、段丘上をほぼ水平に近い感じで走った後、赤いアーチの芦ヶ沢大橋を渡って左折、ヘアピンまで下る部分だ。段丘上の広域農道からは、透明でコントラストの強い秋の光に照らされた伊那谷と「丘の上」が、さながら精緻で巨大なオブジェのように見えたものだ。
そのように、実は南信州ステージのコースの大半を、私は10年ほど前すでに走っていたということになる。飯田市内に住んででもいれば、別にそれは特別なことでも何でもなかったであろうけれど、なんせ私は静岡県住まいの人間だから、飯田にはそれなりの距離があり、そう始終、飯田のそこいらを走り回るわけにはいかなかったのだ。
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長野県の辰野あたりから、飯田南部のあたりまで、天竜川が形成した谷間は、伊那谷と呼ばれる。谷といっても、地理学的には伊那谷は構造盆地というのだそうで、なるほど、この伊那谷は谷という名前こそあれ、とても開けた景観を成している。その景観や地形の基調となっているのは、天竜川が形成した河岸段丘だ。これは場所によっては、二段あるいは三段という具合になって、立体感と奥行きを地形に与えているのだけれど、自転車乗りなら誰でもいやというほど知っているように、段丘(terrasse)のあるところというのは、つまりは坂だらけということだ。
しかし、伊那谷の段丘には、その坂を上る気にさせるだけのものを持っている。場所によっては10%を越える上り坂を、息を上げて上り、南信州ステージ周回コースの「上段」に至ると、やがてコース進行方向左手前方に、天竜川対岸の段丘地形が姿を現す。反対側の段丘が見えてくるのだ。「丘の上」すなわち飯田旧市街も、その段丘上に位置している。スーパー銀輪男どものパレードは、あの段丘の上から下ってきたのだ。そして、周回コースのアップヒルとダウンヒルもまた、こうした段丘を上り下りする経路そのものなのである。
「丘の上」の周囲を遠望すると、白っぽい人工物や薄緑色の田畑が織り成すテクスチュアを、ところどころで遮断したりあるいは縁取るようにして、より濃い緑色の帯が断続している。地理学に詳しい若い友人によれば、それは段丘崖と呼ばれる部分であり、その植生によって、国土地理院の地図上でも確認できる場合があるそうだ。
その日、もしあなたが飯田旧市街地、「丘の上」の眺めの良い場所にいて、天竜川対岸の方角に目をこらすと、列車がゆっくりと水神橋をわたってゆくのが見えるだろう。やがてそれは川沿いの道に連なる民家の影に呑みこまれてゆくが、10分もすれば、今度は方向を変えて段丘の上段に現われる。そのとき、列車の長さは引き伸ばされ、どうも色も薄くなっている。そして列車は12周もそこで周回を重ね、周回を重ねるたびに、その姿が変化してゆく。まあ実際にそう見えるのかどうかは知らないが、われらが大道レーサーのステージレースは、今年も、一日限りの動くオブジェをライブで見せてくれることだろう。
けれど、名にしおう選手たちが集うその日だけが、周回コースや「丘の上」を訪れるのに値する日というわけではない。私が初めて訪れた秋の日も、南信州ステージの開催が決まった昨年に地元の仲間たちと走ったときも、つい数日前に飯田自転車会の面々とコース状況を確認に行ったときも、やはりこの道は印象深かった。美しい段丘(Belle Terrasse)だった。飯田は林檎のとれる南限の土地なのであるが、五月の連休の頃にはその白い花が咲き、夏は緑輝く果樹園に風が吹き上がり、秋には実りの色が段丘に点描される。さすがに冬期は凍結や積雪もあるために、おすすめできないが、春から秋にかけて、実に味わい深い一刻にひたることができる。
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南信州ステージの景観の素晴らしさはともかくとして、飯田というところの、飯田の街や田園や段丘の、固有の価値というのは、実はそれほどわかりやすいものではないかもしれないと私は思っている。だって、そこには、観光バスが大挙して押し寄せるような特別ゴージャスで通俗的な観光資源があるわけじゃないし、何かがさあおいでと誘うような素振りを見せているわけでもない。それでも、私のように、飯田に惹かれ続け、何度訪れても飽きることのないサイクリストやツーリストは、確かに存在しているのである。
その理由は、というと、いささか咳払いのひとつもしたくなるようなことなのだが、飯田には、人を癒す何かがあるからなのだ。この、人口10万ほどの山都やその周辺には、日本の多くの都市や街や郊外や田舎が失ってしまったものが、まだ残されているのである。私はそれが何かうまく言い当てることができない。けれど飯田にはそれがまだ存在しており、段丘上の林檎畑、裏界線と呼ばれる街中の路地、菱田春草の色彩に似た土、そういったものから、もっともありふれた、平凡な市井の片隅にさえ、何も言わずに、ただ人の魂を穏やかに包み込んでくれるような力が生きているのだ。
そうした力は、この土地に暮らす人々の心の底にも沁み込んでいて、それが、遠来の客を喜んであたたかく迎えるという飯田人の気風につながっているらしい。だいたい、半日も交通規制で身動きとれない状況になるというのに、周回コース内の下久堅地区の人々のほとんどは大手をあげて開催を歓迎し、素晴らしいレースが行われるんだから、ぜひどう楽しんだらいいか教えてくれないか、とまで言ってくれたらしいのである。
秋葉街道、三州街道、大平街道。飯田は古来、街道が集まり、交錯する地だった。現在の静岡県西部にあたる遠州、愛知県東部の三河、同じ長野県の妻籠や馬籠に代表される木曾、そして松本平や諏訪。飯田は、天竜川を縦糸に、東西の峠を横糸に、異文化の交わるひとつの特異点だったに違いない。また飯田は、林檎の南限、茶の北限と言われるように、南北の植生が出会う地でもある。そうした風土から、おそらくは、旅人のような異質なものを受け入れ、異質なものを結びつける素地ができあがっていったのだろう。
幾世紀もかけて、そうしたものは人々の心の土壌に沈んでゆき、彼ら自身にもふだんは意識されないかたちで、独特の心魂共同体を形成したのかもしれない。それは、もしかしたら、地質学的な時間をかけて、天竜川が構造盆地の表面を削り、なだらかで豊かな、麗しい段丘を形作ったことと似ているのかもしれない。そして、天竜川という水脈は、見かけよりずっと深く、下伊那の土の下を音もなく流れているのだ。
今年もまた、南信州、飯田に風薫る新緑の季節がやってくる。空も斜めの山坂に、銀輪を駆る猛者たちの祭りがやってくる。それがどんなにレベルの高いものであれ、レースは選手や運営組織だけのものではない。舞台は、観衆と役者と裏方あってのものなのだ。美しき丘での、至福の出会い(Belle Terrasse Randez-vous)。私たちはその時間を共有できるし、その余韻にひたることもできるのである。
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こよなく愛する自転車の旅と、もうひとつのテーマである文学をクロスオーバーさせ、走って、撮って、書く活動を続けるエッセイストでサイクリスト、白鳥和也氏によるツアー・オブ・ジャパン南信州ステージのコース印象記。